日韓が領有権を主張している竹島。韓国は、竹島の領有権を固めようと、過去に約4000人の日本人を不法に抑留し、そのうち8人を死亡させている。事の始まりは「李承晩ライン」だ。1952年に韓国の李承晩大統領が宣言した境界線で、この境界線を越えたとして日本漁船の拿捕を続けたのだ。抑留された漁師は「地獄」を味わったという――。
「“この世の地獄” 日一日と弱る体力」。1956年5月19日、島根県の地方紙石見タイムズは、韓国当局に拿捕され抑留されていた漁船乗組員の石田儀一郎さんが、韓国の収容所から送った手紙を掲載しました。
「異国刑務所においてはこの世の地獄の生活を味わい、冬は零下15度を降(くだ)る、膚(はだ)を裂く寒さの中に相(あい)擁(よう)して暖をとり、夏は狭い監房の中で呻吟(しんぎん)し、格子窓越しの移りゆく四季に、また漏れきたる三日月に我が身の不幸を嘆き妻子をしのび、思いを故国の山河に馳(は)せて耐えて参りました」。
韓国の李承晩大統領は1952年1月、独断で公海上に排他的経済水域の境界線(李承晩ライン)を突如設定し、この海域内の無断立ち入りは許さないと一方的に宣言しました。この宣言以前、韓国が建国される前の1947年ごろからも日本漁船の拿捕は始まっていましたが、李承晩ラインの設定はそうした動きをさらに強化するものでした。「海上保安白書」(昭和41年版)によると、日韓が国交を回復する1965年までに、韓国当局は327隻もの日本漁船を拿捕。3911人の漁師を拘束し、うち8人が死亡しました。
拘束された漁船員に何が起きたかは、抑留経験者のグループがまとめたガリ版刷りの『韓国抑留生活実態報告書』や、その後刊行された『日韓漁業対策運動史』に詳しく記されています。彼らは韓国に連行され、狭い部屋の中に大勢で閉じ込められ、しばしば刑務官から殴る蹴るの暴行を受けました。拿捕された日本漁船の多くは李承晩ラインの内側に入っていなかったのですが、それでも「入った」という供述を求められ、従わなければ暴行されました。
日本からの差し入れ品の小包は刑務官たちによって横流しされ、劣悪な食事や不衛生な環境で腸チフスなどの病気も多発。まともな治療も受けられずに病死したり、精神の平衡を失った状態で日本に強制送還された人もいました。まさに収容所は「この世の地獄」だったのです。
○「日本叩き」で信任回復を狙う
李承晩ラインはなぜ、突如引かれたのでしょう。1952年、朝鮮戦争は膠着状態に陥り、アメリカとソ連との間で休戦交渉が行われていました。李承晩は北朝鮮への徹底抗戦を主張しましたが、アメリカは耳を傾けようとはしません。
韓国軍は北朝鮮軍にやられっ放しで、軍事的成果はほとんど上げられませんでした。焦った李承晩は、スパイ狩りの名目で「保導連盟事件」をはじめとする自国民の大量虐殺という愚挙に出ます。朝鮮半島を武力で統一すべきだという李承晩の主張もアメリカに拒絶され、政権の信任は地に落ちていました。
起死回生を図った李承晩は、日本を叩き、それを喧伝することで、国内世論を自分に有利に誘導しようとしました。そして、李承晩ラインとともに、竹島の領有を一方的に宣言。竹島に警備隊員を常駐させ、今日まで続く不法占拠を始めます。
日本はこのときアメリカ軍の占領下にあり、国家主権がないために韓国に対抗する手段がない状況でした。李承晩ラインの宣言は、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本の主権が回復する直前のタイミングで行われたのです。
○アメリカ政府の却下も押し切りとはいえ
李承晩ラインが国際法上、違法であることに変わりありません。サンフランシスコ講和条約において、日本は「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」を放棄しました。この中に、竹島は含まれていません。李承晩はこれに抗議し、日本の放棄地に竹島を含めるようアメリカに要請しました。しかしアメリカ政府は、いわゆる「ラスク書簡」で「ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある」(*1)と記すなどして、その要請を却下しています。
○日韓関係がいまや戦後最悪とも言われるほどに悪化しています。
韓国は全て日本が悪かったと主張し続けていますが、その主張には、実は全く歴史的根拠がありません。しかしながら、日本がこれまでそのことを指摘し根拠を挙げて反論してこなかったために、両国の関係はここまでこじれてしまったのです。まずは事実を知ること。そのためには、当時の記録、それも利害関係のない第三者の客観的な記録を知ることが最も重要です。
○日本が日韓併合の35年間で行った本当のこと
日韓併合から109年、日本の敗戦によって朝鮮統治が終わってから74年になる今日でも、「植民地支配」によって搾取されたという韓国からの日本批判が続いています。
そもそも日本による朝鮮統治は具体的にどのようなものだったのでしょうか。はたして朝鮮は帝国主義的な「植民地」だったのでしょうか。
あまり知られていませんが、日韓併合前の朝鮮において、女性は奴隷同然で何の権利も与えられていませんでした。さらにはそれ以下の奴婢(ノビ)・白丁(ペクチョン)と呼ばれた本物の奴隷たちが人口の半分を占め、特権階級である両班たちから非人道的な扱いを受けていました。
その奴隷制度を廃止し、衛生面をはじめ劣悪だった状況を一気に改善し、朝鮮の劇的な近代化を行なったのが、日韓合邦の歴史的事実なのです。
日本は巨額の予算を投じ、首都京城(ソウル)を東京よりも近代化させました。インフラ、医療、公衆衛生、教育、司法制度や経済政策にいたるまでの健全化、近代化を成し遂げたのです。
そして昨今の日韓関係からは想像しにくいですが、そのことを当時の朝鮮人と台湾人の大半が喜んでおり、日本人との関係も良好だったのです。
日本の朝鮮統治は、支配国の一方的な搾取である植民地支配とは一線を画すものであったことは、いまや日本人にも忘れられているのが実情です。
○当時の朝鮮を訪れた英国の研究者が評価した日本の政策
今日に至るまで、根拠のない捏造の歴史で日本を批判し続ける韓国は真実を直視しない限り、かつて確かに存在した日本と韓国の友好関係が戻ることはないでしょう。そして日本人も韓国による事実無根の主張に対しては、歴史の事実を持って反論するのが最も有効でしょう。
この客観的事実を、当時最も著名な植民地研究家のアレン・アイルランドは1926年にニューヨークで刊行された著書「THE NEW KOREA」の中で克明に分析しました。そして日本の統治を西欧列強のいかなる政策よりも優れているとして高い評価を与えています。